Mesoamerica

メキシコ合衆国


メキシコ合衆国(メキシコがっしゅうこく、スペイン語: Estados Unidos Mexicanos)、通称メキシコは、北アメリカ南部に位置する連邦共和制国家。北にアメリカ合衆国と南東にグアテマラ、ベリーズと国境を接し、西は太平洋、東はメキシコ湾とカリブ海に面する。首都はメキシコシティ。
メキシコの人口は2020年時点で1億2,893万人であり、スペイン語圏においてはもっとも人口の多い国である。国内総生産(GDP)は、中南米地域においてはブラジルに次いで第2位に位置する。人口は増加傾向であり、2019年統計で日本を抜いて世界10位となった。

国名は独立戦争の最中の1821年に決定したものであり、アステカの一言語であるナワトル語で「メシトリの地」を意味する「M?xihco([me???i?ko] ( 音声ファイル))」に由来する。メシトリ(メヒクトリとも)は、アステカ族の守護神であり、太陽と戦いと狩猟の神であるウィツィロポチトリの別名で、「神に選ばれし者」の意味がある。アステカでもっとも信仰されたこの神の名に、場所を表す接尾辞「コ」をつけて、この地における国家の独立と繁栄に対する願いを込めた。
なお「合衆国」という政体名について、同じものを名乗る隣国、アメリカ合衆国が経済と軍事の両面で影響力が強大であり、単に「合衆国(United States)」だけでも同国を指すため、自国が米国の弟分のように見られてしまうとの不満が国民の一部に存在し、国名を「メキシコ共和国(Republica Mexicana)」に変更しようという動きがある。この意識は、19世紀末の米墨戦争敗戦直後から特に見られるようになり、以来長年にわたり議論が繰り返されているが、変更には至っていない

スペイン植民地時代
以下略
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歴史
先史時代
現在のメキシコに当たる地域では2万年前の遺跡が発見されており、それ以前から人間が住んでいたと考えられている。マンモスなど狩猟および採集の生活をしていたが(この時代を、パレオ=インディアン期;Paleoindian period / stage 、若しくは石期 Lithic Period / stage という)、紀元前8000年ごろにトウモロコシの農耕が始まった。農耕が開始された時代を古期 (archic period / stage) という。

先コロンブス期
紀元前2300年には最初の土器がつくられた。これ以後を形成期 (Formative period / stage) 若しくは先古典期 (Preclassic period / stage) という。メソアメリカ研究の最近の傾向としては、先古典期の区分名を用いる研究者が優勢になっている。
先古典期中期の紀元前1300年頃、メキシコ湾岸を中心にオルメカ文明が興った。オルメカの人々は、自然の丘陵を利用してサン・ロレンソ(ベラクルス州)、後にラ・ベンタ(タバスコ州)という祭祀センターを築いた。オルメカ文明は、彼らの支配者の容貌を刻んだとされているネグロイド的風貌の巨石人頭像で知られる。一方、先古典期後期になると、ユカタン半島北部にコムチェン、ジビルチャルトゥン、カンペチェ州にもカラクムルなどいくつかのマヤ文明の祭祀センターが築かれた。
オアハカ州では、盆地北部の有力センター、サン・ホセ・モゴテの支配者たちが、盆地中央の小高い丘にモンテ・アルバンの神殿都市を築いた。モンテ・アルバンの盛んな征服戦争の勝利は、「ダンサンテ」と呼ばれるレリーフの捕虜たちの姿に表されている。また、モンテ・アルバンには、先古典期中期にすでに260日暦を使用していたことが石碑に刻まれている。

さて、先古典期も終わりごろ、メキシコ中央高原のテスココ湖の南方に、円形の大ピラミッドで知られるクィクィルコ、東方にテオティワカンの巨大都市が築かれた。クィクィルコが紀元前後にシトレ火山の噴火によって壊滅的打撃を受けると、テオティワカンの優位は決定的となり、たちまちのうちにその経済力と軍事力でメソアメリカ全域を間接的に支配した。その力は、遠く、グアテマラのペテン低地のワシャクトゥンティカルを支配する新王朝を築いたことによく現れている。また、モンテ・アルバンの南基壇にある石碑レリーフにもテオティワカンからの使者が来訪したことが刻まれている。両者は友好関係にあったと考えられている。なお、メキシコ湾岸では、トトナカ族のエル・タヒンやマヤ文明と同様長期暦をもちいたセロ・デ・ラス・メーサスが独自の発展を示した。

紀元後250年ないし300年頃から古典期 (Classic period / stage) が始まる。この時期、グアテマラのペテン低地及びその周辺にあるマヤ文明の著名なセンターが全盛を極めるが、それらのセンターのうち、ティカルと激しく争ったのがカンペチェ州にある「カーン王朝」の首都カラクムルであった。一方、チャパス州にある「ラカムハ」という名で知られる都市パレンケは、ティカルの同盟者であったと考えられている。

メキシコ中央高原では、7世紀頃、テオティワカンが破壊され、トゥーラと呼ばれる群小都市国家群が割拠した。そのうち有力なのは、中央高原の南側に位置するショチカルコと北側に位置するイダルゴ州のトゥーラ・シココティトランであった。トゥーラ・シココテイトランは、古文献のトゥーラにほぼ同定されることからトルテカ帝国説を生み出したほどの力をもっていた有力なトゥーラであった。一方、テオティワカン崩壊後、マヤのセンターは一時的に繁栄するが、やがて戦争、乱伐による食糧不足、気候の変化、疫病、交易路の変化など複合的な要素によって疲弊し、9世紀頃に崩壊していく。これ以後からスペイン人による征服までの時期を後古典期 (Postclassic period / stage) と呼ぶ。

ウシュマルの尼僧院。典型的なプウク様式の建物。
ユカタン半島では、チョンタル人ではないかと考えられる「プトゥン」商人によるユカタン半島沿岸での交易活動がさかんとなり、ユカタン半島北部のチチェン・イッツァマヤパンウシュマルなどの都市国家がその恩恵を受けて繁栄した。ユカタン半島北部には、古典期の終末からこの時期にかけて、前述のウシュマルのほかに、ラブナー、カバー、サイールなどの都市国家ないしは祭祀センターが築かれ、プウク様式の名で知られる優美な建築物が建てられた。「プトゥン」商人たちは、コスメル島にイシュ・チェル女神の「神託所」を築いたため、コスメル島は繁栄していた。


アステカ帝国
メキシコ中央高原には、気候の寒冷化によって、北方からチチメカ人の侵略が開始される。そのために多くのトゥーラ群は破壊されたり征服されたりした。
14世紀後半、テスココ湖の西岸にあったテパネカ族の国家アスカポツァルコにテソソモクという英傑が現れ、その傭兵部隊だったアステカ族は、テソソモクが没したあとの15世紀前半、テスココ、トラコパンとともにアステカ三国同盟(英語版)を築いた。テスココの名君ネサワルコヨトルの死後は、完全にリーダーシップを握って周辺諸国を征服し、アステカの湖上の都テノチティトランを中心にアステカ帝国を形成した。アステカの守護神にして太陽と戦いの神ウィツィロポチトリと、雨の神トラロックを祀る高さ45メートルの大神殿「テンプロ・マヨール」がメキシコシティ歴史地区のソカロ広場(憲法広場)の北東に立っている[5]。アステカ帝国は比類なき軍事国家であり、現在のコスタ・リカにまで隆盛を轟かせていた。
一方、ミチョアカン州には、ツィンツンツァンを都とするタラスカ王国があり、アステカ帝国と一歩も譲らぬ力を誇っていた。
これら、メキシコに繁栄した古代文明は、ピラミッド型神殿や都市を築き、独自の宗教観に裏付けられた天文学によって正確な暦を発明していたこと、特に数学の分野では、人類史上初めてゼロの概念を発明したといわれる。

スペイン人による征服
1519年にエルナン・コルテスを長とする約500人のスペイン人がメキシコ湾に到達し、トラスカラ王国を味方につけて首都テノチティトランまでやってきた。当初、皇帝モクテスマ2世はコルテスを歓迎してテノチティトランに住まわせた。1520年に先住民の反乱がおきると一時撤退するが、アステカ帝国に圧迫されていたトラスカラ王国の助けを得て反撃した。アステカ側ではクイトラワクが皇帝に立てられてモクテスマ2世は殺されたが、クイトラワクもスペイン人のもたらした天然痘によって若くして没した。モクテスマ2世のいとこの皇帝クアウテモックはコルテスらと戦ったが、首都から船で脱出しようとしたところをコルテス軍につかまり、1521年8月31日、アステカ帝国は滅亡した。

スペイン植民地時代
以下略
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